外交官杉原千畝氏を思う

 外交官杉原千畝氏は、第二次世界大戦の激戦下、リトアニアの在カウナス日本領事館に領事代理として赴任しました。
 当時のリトアニアは反ユダヤ主義をとっているソ連に併合され、各国領事館・大使館は閉鎖されようとしていました。ドイツ占領下のポーランドから逃亡してきた多くのユダヤ人は、通過のビザを求めて命からがら各国の領事館や大使館に押し寄せている状況にありました。
 そのような中で杉原氏は苦悶します。当時の日本は人種平等は掲げているものの「必要な書類を持っていない者に通過ビザを発給しない」とする外務省の方針に杉原氏は背いて、ユダヤ人に無制限でビザを発給することを決断をしました。
 寝食を忘れて手が動かなくなるまで約1ヶ月余り、『命のビザ』の発給し続けました。杉原さん一家がリトアニアを去るそのときまで発給を続けその枚数は2,139枚を数えました。
 このビザによって命を救われたユダヤ人はおよそ6,000人。多くの国外脱出を助け、ひいては数万人の子孫の命も救ったのです。
 大正7(1918)年、杉原千畝さんは英語教師を目指して早稲田大学高等師範部英語科に入学しますが、翌年外交官養成のための官費留学生の試験に合格し、満州に渡ってロシア語を学び、大正13(1924)年、外務省書記生としてハルビンで就職し、その6年後の昭和6(1931)年満州事変が勃発し翌年には満州国が建国されます。杉原さんは満州国の外交部に派遣され、ソ連との交渉などの仕事に従事します。次第に実権を握る関東軍に反発し昭和10(1935)7月1日同部を退職し帰国。外務省に復職するのです。そして昭和14(1939)年、大きな転機となるリトアニアに領事代理として赴任することになります。
 このような杉原氏の人道主義、博愛精神に満ちた決断と行動力を我々は高く称えるとともに誇りとし「稲門杉原千畝顕彰会」を組織し、昨年9月28日に会合を持ち、10月24日「杉原千畝レリーフ」を早稲田大学に設置をしたものです。
 これに先立ち政府も平成12(2000)年10月10日、杉原千畝さんを讃え、記念のプレートを設置する式典が外務省外交資料館で行われました。
 『勇気ある人道的行為を行った外交官・杉原千畝』とプレートには刻まれています。
 その2ヵ月後には生誕地大阪で、杉原千畝生誕百年式典が開かれました。式典には、多くのユダヤ人も出席しました。かって杉原さんが救ったユダヤ人の子孫は、全世界で32,000人に及ぶと言われています。
 杉原千畝さんが晩年語った言葉は私の心を打ちました。その言葉を紹介し結びと致します。
 『私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることができなかった。大した事をしたわけではない。当然のことをしただけだ。』 と・・・・・・。

    杉原千畝6,000人の命のビザホームページ:http://chiunesugihara100.com/